湯川 ゆかわ 秀樹 ひでき
中間子の存在を予測した業績が評価され、24年日本人として初のノーベル物理学賞を受賞。 23年からプリンストン高等研究所やコロンビア大学で教鞭をとった後、28年新設された京都大学基礎物理学研究所の所長となった。受賞理由:「原子核の理論的研究に基づいて中間子の存在を予言」して、昭和 24 年(1949)に日 本人初のノーベル賞(物理学賞)受賞者になりました。 研究内容:研究分野は「量子力学」で、特に「なぜ陽子と中性子が原子核の中でバラバラにな らないのか」という命題を探求しました。日本で最初のノーベル受賞者 湯川秀樹は、1948年に日本で最初にノーベル賞を受賞した物理学者です。 湯川博士は、原子核を堅く結びつけている力(核力)を説明する「中間子論」を、1935年に発表しました。
日本人で初めてノーベル物理学賞を受賞したのは誰ですか?日本人が初めてノーベル賞を受賞したのはいまから74年前、戦後まもない1949年で、湯川秀樹(ゆかわ・ひでき)さんが、物理学賞を受賞しました。
湯川秀樹の代表作は?
代表作品
作品名 | 刊行年 | 版元 |
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新粒子論 | 1939 | 共立出版 |
極微の世界 | 1942 | 岩波書店 |
存在の理法 | 1943 | 岩波書店 |
目に見えないもの | 1946 | 甲文社 |
湯川秀樹と朝永振一郎。 同時期に東京で生を受け,父親の京都大学への赴任により,ともに幼くして京都に移る。 そこで少年時代を過ごし京都大学で学んだ。 間違いなく2人はあらゆる面で素晴らしいライバルだった。
湯川秀樹のあだ名は?
無口で孤独なイワンちゃん、 量子論に出会う
のちの湯川秀樹です。 翌年に琢治が京都帝大の教授に招聘されたため、一家は東京から京都へ転居します。 秀樹は人づき合いが苦手で無口な子どもでした。 子どもの頃のあだ名は「イワンちゃん」。
湯川の受賞理由となった業績は、28歳の時に書いた「素粒子の相互作用について」という論文である。 この論文で、湯川は原子核内の陽子と中性子の間を結びつける中間子という粒子の存在を計算式によって予言した。 12年後、イギリス人学者の宇宙線観測によって一つの新しい粒子の存在が確認された。
湯川秀樹がノーベル物理学賞を受賞したのはなぜですか?
受賞理由は27歳だった1934年に発表した「中間子理論」。 原子核の中にある陽子や中性子を結びつける未知の粒子の存在を予測したもので、「中間子」はその後、発見されました。 湯川さんはその後、平和運動、中でも核兵器廃絶に力を入れて活動を続けました。具体的には、「学者が自由に研究できる環境が整っていない」「失敗を意に介さず忍耐強く研究するファンディング制度が不十分」「誰も挑戦しようとしない研究分野への投資や基礎科学に対して、十分な投資が確保されていない」などだ。p.98に「一日生きることは一歩進むことでありたい」という言葉が、湯川秀樹の名言として掲載あり。
天才物理学者の湯川学。 原作のモデルは俳優の佐野史郎さんのようです。
湯川秀樹が与えた影響は?湯川は、京都帝国大学で理論物理学を学び、27歳の若さで中間子を発見し「中間子理論」を発表。 その後の素粒子論は理論物理学の一分野に大きな影響を与えた。 そしてこの「中間子理論」が認められ、昭和24年(1949)のノーベル賞受賞となったのである。
ノーベル賞は死んだらもらえませんか?ノーベル賞には、死去した人には授与しないとの規定がある。 受賞資格が議論となったものの「存命を前提で決めた」として賞は贈られた。
ノーベル賞受賞者が多い国はどこですか?
ノーベル賞大国 トップ10
ノーベル賞は、文学や生理学、平和、物理学、化学、経済科学などの分野において、人類への卓越した貢献が認められた人物に贈られる名誉高き賞だ。 1901年から2021年10月7日現在までに、受賞者数が圧倒的に多いのは米国で日本の13.5倍を誇る。
「一日生きることは、一歩進むことでありたい。」 という名言は彼の研究者としての人生を象徴しています。《湯川秀樹にちなむ》原子物理学で用いられる長さの単位。 1ユカワは10兆分の1すなわち10−13センチ。 記号Y フェルミ。湯川 学 ( ゆかわ まなぶ )
一見優男に見えるが、学生時代はバドミントン部のエースとして鳴らしていたこともあるスポーツマンだ。 ただし社交的な性格ではなく、特に子供に接するのは苦手である。 コーヒー好きだが、淹れ方に拘るほうではなく、いつもインスタントコーヒーを飲んでいる。